昭和47年4月24日 朝の御理解     (末永信太郎)

御理解第2節
 先の世までも持ってゆかれ、子孫までも残るものは神徳じゃ。神徳は、信心すればだれでも受けることができる。みてる(尽きる)ということがない。



 信心をすれば、誰でも受けることが出けるのが、信心です。金光様の信心を頂いておるという人達の全部が、御神徳を受けておるかと言うと、御神徳に浴してはおるけれども、御神徳を身に受けておるという人は極少ない。だから、その極少ない人達の信心というものを、まあ、どういう信心かと分からせてもらって、そういう信心をすれば、誰でも受けられるのである。
 だから、信心と言うてもね、ただ金光様に席を置いておるとか、教徒になったとか、信徒になったとかというだけではないと、その、ね、その証拠に御神徳を受けたと、違う御神徳を受けられたなと思われるような人は極少ないのですから。そこでですね、その信心をさせて頂く者が、ああしてはならん、こうしてはならん、こげなことではおかげは受けられんぞ、お徳は受けられんぞということもございますけれども。
 私は、その過程においてはね、どうしちゃならん、こうしちゃならんということは絶対ないのが金光教だと思うですね。まあ、極端な話であるなら、金光教の信心すりゃ、泥棒はしてはならん。なら、もちろんしてはならんですけれども、ね、それだからと言うて、ね、次に改まればそれでいいのですから。
 だから、泥棒でも金光様の御信心が出けるのである。まあ、極端な話なんですよ。それぞれ、癖のない者はありません。様々な癖を持っており、それが一つの家のめぐりと思われるような、いろんな癖があります。もう、本当に信心しよって、どうしたことじゃろうかと、まあ、信心する者でもない者でも、あれどんが信心しよるばってんといったようなものをです、やはり持ってる。
 だから、そういうことであってはならんということは、決してない。ただ、あってはならないと、こうしてはならんということが、たった一つある。私は今日そのことを頂いて。そりゃあ、信心させてもらやあ、あげんもしちゃならん、こげんもしてもならんということは、ずいぶんあると思うておった。例えば、親、もちろん御神戒に、信心する者が幼少の時を忘れて、親に不幸のこと、とこう仰るが。
 ね、親不孝してはならん、と。けれどもね、それは親不孝してもいいのです。そして、その、親不孝がどんなにつまらんものか、ということが分かって、また親孝行なれば良いのですから。もう、それでお前は見捨てたと仰るような神様じゃ決してないのですよ。ね。
 まあ、今日はどうぞ間違えんようにして下さい。なら、今日からいっちょ親不孝しようちゅうなら、どんこんされんから。けれどもね、金光様の御信心はもう、こうしてはならん、ああしてはならんということは、決してないということ。ね。けれども、たった一つ、これだけはこうしてはならんということがあるのはね、信心を止めてはならんということです。もう、これがね、一貫した性根の中に入っとらん限り、絶対御神徳は受けられないです。何かに行き詰まったらね、もう、神も仏もあるもんかと言うて、信心を止めてしまう。そういう性根。これだけは、ならんです。
 どういうとこを通っておっても、そりゃずるい人もありゃ、こすい人もある。ね。それこそ、信心しよって、あげなこっで良いだろうかと目に余るようなことを平気でやる人もやっぱある。ね。けれどもね、それはです、それでおかげは受けられんということはない。信心をして、おかげを受けるのは別物と仰るから。ね。けれども、お徳を受けることのための信心と、今日はね。
 あの世にも持って行け、この世にも残しておけるというほどしの信心。そういう人達が、もう絶対、これだけは、その持っておられたもの。それはね、もう絶対、金光様の御信心から、お道の信心からどのような場合であっても、離れられない、離れてはならないという、これだけはお徳を受けた方達の誰しもが同じ考えをなさっておられた、この事だけは。
 もう、金光様でおかげ頂けんごたんなら、また、何々様に通ったっちゃよかけんで、というような人やら信心を中途半端で止めるような人は、もう絶対にお徳は受けとりませんですよ。ね。ですから、いかに私どもがね、お道の信心、金光様の御信心というものが、もう、それこそ、人間が、まあ、生けとし生ける者がです、お道の信心によって助からなければならない、そういう大変な内容を持っておる信心だということをね、一つ骨のずいまで分かっておかなければいけないということになりますね。
 本当に熱心にお参りをして来よった。総代まで、ここでしておった人がありました。もう、熱心に参って来ました。この人がおかげ頂かんはずはなかちゅうごたる、熱心な信心でした。そうですね、十年ぐらい続けましたでしょうか。もう本当に、もう親先生が命をやれと仰るなら、親先生の方に命を捧げると言いよった。もう、私が御本部参拝をするっちゃあ、もう、それこそ影のように必ず付いて来た、どんな場合であっても。もう、どんなに家が例えば火の車の状態であろうが、どんな事情があろうが、もう、これだけは絶対付いて来よった。もう、この人がその信心を止めるてん何てんちゅうことなんか、もう、思えなかった。
 ところが、ある金策で金にいつも困っておりましたが、あるとこに行ってから、ある宗教を進められた。で、アンタが私の言う宗教に入るならば、アンタがその金は貸してやってもええと言われた。もう、ほんな、それで一遍ぶっすりでしたよ。2~3日参って来んからどうしたこっじゃろうかと思いよったら、手紙が来た。ほんな便船に何条か書いて、金光様の御信心は止めます、〇〇宗に変わりますて、それだけだった。
 もう、本当、私はもう、まあ、もちろん今でも私はその人んことを祈り願わせて頂いておりますけれどもね。もう、本当にもう、あっちゅうごたる感じでしたねえ。そして、思うのですよ。なるほど、これじゃあ、おかげを頂かなかったはずだと思いましたね。十年間も一生懸命、信心させてもらうけれども、どうしてもおかげを頂かん。なら、現在〇〇宗に入ったからと言うて、やっぱり、先日その近所の方がお届けがあったんですけれども、一時は自動車どん買うちから(やれやるように?)なったけれども、最近などこでに行くでん歩いて歩きよんなはるけん、どげな風ですかち言うちから聞いたら、もうこの頃はもう、すてんぽてんになってから、自動車まで手放しましたち言わっしゃった。
 残念、こんな残念なことはない。ね。細うても長う続くということ。それはもう、本当にこの人が金光様から買われてん何てんちゅうことは、と思うような人がですね、例えば、なら、そのあっという間に別に信者さん同士に何かあった訳じゃない、私との仲というものは、もう、本当にいよいよ密になって行くばっかりというな感じだったです。そうですよねえ、私に命でも捧げるちゅうぐらいじゃから。
 それがですね、もう、コロッとまいってしまったんです。そして、私が(今思うこと?)、なるほど、そういう弱いところがあったから、おかげを受けなかったはずだと、私は思います。ね。ああいう生き方じゃけん、お徳も受けるだろうと思った。けれども、その、肝心要のところ、これだけはならんということが、心の中にはっきりしてなかったということです。ね。
 これはもう、とにかく、まあ、踏まれようが蹴られようが、それこそ泣き面に蜂というようなことが続こうが、ね、金光様だけは離されないという、ね、この精神だけはです、私どもの心の中に、そんためには、なら、金光教の信心の内容というものを、いよいよ分からせてもらって。金光大神の御取次を頂いて、天地金乃神様のおかげを頂かなければ、人間の本当の幸せはもうないんだということまで分からにゃいかん。
 それを、例えば合楽で御信心を頂いておられる方達は、分からせられておると思うんです。ね。そのことについて言うならば、もう本当に噛んで含めるように、こうやって御教え頂くんですから。それで、そりゃあ、もう、誰でも自分のもの、いわゆる、我が物の宝で言いますよねえ。我田引水とも申します。
 けれども、私のが我田引水か我が物の宝であるかということの事実をね、皆さんが本当に研究して頂いてです、なら、本気で分かって頂いてです、そして、自分も体験を頂いてです、ね、金光様の信心を頂かなければ、いや、離れることは出けない。これは、孫子の末までこの信心によって助からなければならない。その元を私が取らせて頂くんだと、皆さんの場合は、ね、その思い込みをいよいよ知行させて頂くなら、また必ず、子孫にも続くでしょう。これはお徳です。ね。
 金光様の御信心すりゃ、ああしてはならん、こうしてはならん。信心しよって何ちゅうこつか、ということもあるけれども、そん、それはただ、おごりよるだけの事であってから。ね、それを改めりゃ、もうそれでいいのである。ね。それからと言うて、なら、止めんでもです、なら、信心しよってそういうことを、というような人でもです、続けておれば必ずおかげだけは受けるです。
 ね、けれども、ならないもの。これだけはならない。それは、本当に信心をね、金光様の御信心をです、ね、もう絶対止めてはならんということ。このね、この根本精神がある限り、絶対、必ずいつか芽が出るです。それはね、もう、それこそどんなに真っ暗闇でね、手探りで歩きよってもです、金光様の信心を絶対なものとして頂いておればです、手探りし、真っ暗な中でどこに突き当たったり、どこに落ち込んだりすることは絶対ないです、どげな(暗闇?暗すみ?)を行きよっても、心がどんなに真っ暗であっても。
 今朝方、私はお夢にそんなお知らせを頂いとった。それこそ、真っ暗な中をですね、あの、手探りでその、行きよる。そして、色々なところ、もう、それこそ、様々なとこをこうやって、手に触るものから、ははあ、ここは何ばあるとばいな、ここには何ばいなということが分かるんです、夢の。そして、2~3段、段階を上がらせて頂いたら、今の合楽の御信者さん方がいっぱい会堂のようなとこに集まっておるところに出らせて頂いたというようなお夢であった。
 まあ、それから感じさせて頂いて、金光様の御信心は絶対なものとして頂いて行く。もう、どのぐらいなことがあっても、金光様の信心だけは離されん、離したならんという根性がですね、出けたらです、今、どういう光のない生活をしておっても、どういう真っ暗な中を通っておっても、一歩ずつでも二歩ずつでもです、手探りでも良いから、前に進んで行きよる限り絶対なところに出ることだけは間違いないです。
 もう、自分の代で出らんなら、子供の代で出るです。ね。今日、私がお知らせを頂いたのは、この合楽の楽という字。楽という字の上の方だけ頂いた。白を書いてこう、糸偏のようなのを書いて、横に書いて。下はこう木を書いて、楽という字ですよね。白ということは、ね、白紙になるといったような意味です。
 白ということは、どう言うかと言うと、どうでも良いということです。ね。こうあらにゃならん、こうしてもらいたい、といったようなものを捨てた姿が、白です。どうでも良いという。と言うて、んなら、もうどげんなってんなれ、どうなっとんなれという捨てばしなものではなくて。ね。そのどうでも良いという心で、いつも神様との繋がりを持っておるということなんです。
 横のこう、糸偏のようなのは、これは神様との繋がり。両方にこう繋がり、と。ね。これを、こうやって解いたら糸になる。ずうっと、これが、その天地に繋がっておる、天地と交流しておる。私どもの心がです、ね、これは、けれどもまあ、言うなら、まあ、私の信心の今の最高のところを言うならば、私はやや、そういう心の状態を頂いておるということ。例えば、大祭なら大祭という大きな行事が教会の行事として行われます時に、どうあらなければならない、どうしなければならない。
 そげなこっで行くもんのちゅうことは絶対思わないことです。ね。けれども、ただ、神様とだけは、もう(寒暖?)なしにいつも繋がっておる、神様と交流しておる。ね。もう、神様が言うならば出たところ勝負。神様が下さるものを有り難く頂こうと、(    )。ね。どうでも良いという、だから心なんです。
 なら、どうでも良いということは、ただ、んなら、ね、ただ普通で言うどうでも良いではなくて、神様とだけは繋がっておらなければならない。そういう心の状態が楽と言うのである、極楽ていうのは。ね。そういう心という下に、木と(上?)は書いてあるでしょう、木。
 どうぞ商売が今日も繁盛致しますように。どうぞ病気が治りますように。ね。どうぞ、このことをお願い致します、と。ね。そういうところを通って、通って、通り抜かせて頂いて、ようやく、なら私の今日の、まあ、心境。それと言うても、んなら、もう本当に完璧にスッキリしとるということではありませんよ。
 ね、だから、そういう心であるから願うことは出けないと言うとじゃないですよ。その願いの内容が変わって来るだけのことです。したら、願って、んなら、右にならんなん、左にならんなん、右を願いよるから右にならんなん、左を願いよるから左にならねばならん、ということはないです。
 もう、願って、願って、願い抜いておっても、その答えはもう貴方にお任せ致します、と言うのである。なら、大祭のことはいっちょん願わんかじゃない。どうぞ、ご真意に叶う御大祭が仕えたいという(一子?)の願いはある。けれども、願ったその後はどうでも良いのである。
 神様が下さるものなん。それが、白の心、白紙です。ね。どうでも良いというその心であって、しかも、いつも神様との交流はあっておるということ。神様と繋がっておる。そういう心、下に、それに木を書きます。ね、木は心という、心が楽と言う心、楽ということなんです。
 ね、安心ということである。本当に有り難い、勿体無い、畏れ多いの日常、日々であるということなんです。だから、信心というのは、究極そこんところを目指すのですよ。ね。信心の究極のところは、言うなら安心の心を頂きたいということ。どのような場合であっても、安心しておれれるということ。
 どうぞ、万事におくり合わせをお願い致します、金銭のおくり合わせをお願い致します、と。そすと、金銭のおくり合わせを、まあ、頂いた時には有り難い、頂かなかったら心が暗くなる。いや、神様から離れる。そういうな時に、なら、私が貸してやるけんで、私が行きなさいて言うたら、コロッと参っちゃる。ね。
 どういうような中にあっても、お願いをさせて頂いて、御取次を頂いて起きて来ることであるから、そのことの、いわばその時点でそのことをです、ね、起きて来るそのことをどうでも良いという心、有り難いという心で受けて行くと言うのです。そういう心、そういう木。それが、楽。
 だから、そういう本当の意味においての楽ということは、人間の本当の意味においての幸せということなんです。そういう、私は心の状態を御神徳だと思います。ね。ですから、やっぱ願うところは、そこでなからにゃいかんです。そこへ向かって、一歩一歩、お互いが進ませて頂いて、なら現在はです、神様が、信心しよってそげなこっじゃいけんと言われるようなことでも、まだ平気でやっておるような場合があってもいいのである。ね。ですから、またどういうお気付けを頂いて、どういうことになるか分からんけれども、それでいても、やはり神様だけは、どういうおかげを落としておって、どういう、言うなら奈落の底に落ちておるような状態であってもです、神様だけは外されない。ね。
 金光様の御信心だけは止められないという、私は信心を続けてさえ行く限り、そして、願いというところはです、例えば、ね、本当に楽なおかげ。信心させて頂く者は、これからどういうようなことが起こって来ても驚いてはならんと仰る。驚かんで済むような心の状態を願う。どんなような場合であっても、同様しない。ちょっと自分の好きな餌を見せられると、そちらの方へポンと移ってしまうといったような、ね、浅はかな心ではです、御神徳は受けられません。
 信心すれば、誰でもお徳が受けられると仰るのは、どのような場合であっても、貴方の袖から離れられません、離しはいたしませんという、こういう心の状態の信心をさせて頂く人の上に、御神徳は誰でも受けられるのである。ね。参りよるばってん、おかげ頂かん時には、また〇〇さんに参ろうちゅうごたる風な、ね、そういう例えば(ふはく?不白?)な心でね、お徳を受けられるはずもない。また、本当の意味のおかげの受けられるはずもない。金光様の信心しよりゃあ、ああしてはならん、こうしてはならんということは、決してない。ただ、一つだけ。それは、信心を止めてはならんということだけ。
 どんな場合であっても、もう、これだけは、もうそれこそ誓って神様、間違えませんといったようなものがです、心の底にちゃっとなからにゃいかんです。それがある限り、もう必ず、それは信心が、ね、神様の機感に叶わんようなことを平気でやっておる時代ですから、それは真っ暗のところを通っておる。手探りででも、前の方へ進んで行くという生き方でさえあればです、なら、私どもの過去の信心が、今朝から頂いたお夢のようなもんじゃなかったろうかと思うです。
 もう、これだけはもう、それこそ、もう物心付く頃から、ね、もう、この人は金光様のご恩どん忘れよんなら罰かぶると、婆が言いよりました。他所にこう、連れて行かれますとね、はあ、総一っちゃん、ばさらか移らっしゃったのお、ち言うちから挨拶をします。はあ、おかげでこの人は、もう、本当に金光様のおかげですたいち言うちから、言いよりました。
 おかげでですのお、もう、この人じゃろう、あげんこまか時、火傷しなさったつは、ならこれですたい。もう、あれからまた、あげなこつもある、こげなこつもあったばってん、その度におかげを頂いて今日があるという意味のことをです、もう、子供の時から聞き込んどるですから、私はもう、金光様の信心どん止めよんなら罰かぶるという気持ちがいつもあった訳です。
 まあ、罰かぶるというようなこっじゃないけれども、私は金光様の信心さえすがって行きゃあ、おかげが頂かれるというようなものがあったです。これは、まあ、幼年少年期になり、青年期になり。ね。もう、その思いはいよいよ募って行くばっかりでした。なら、その間、んなら、どうかちゅうと、それこそ信心しよって、あげなこっでよかろうかというようなことを平気でやって来ておる。
 商売人じゃけん、こんくらいなことは当たり前というようなことでやって来よった。ね。それでも、その、その気持ちだけは、もう、これは絶対なものであった。子供ん時から、もう続いて来た。ね。だから、私はおかげを受けたと、まあ、これからもおかげを受けて行けると、こう思うのです。私たちが目指すということは、どのような場合にあっても、神様にお礼の申し上げれるような心。
 どんなような場合であっても、いつも心が白紙でおれれるような心。そういう心を目指させてもらう。それを言葉に現すると、どうでも良いということになる。あれが欲しい、これがなからなければ。あれが、ああ在ってくれれば良いのにといったようなものが、さらさらない。子供が言うことは聞くまいが、ね。
 右と願ったことが左になろうが、ね、その時点を、まあ、平生な心で受けて行けるということ。それでいて、神様にはいつも交流しておる。そういう心が出けて来るところから、楽なおかげということになる。その楽なおかげのそういう心にです、これはまあ、言うならおかげは尽きることのないほどしのおかげが約束されておることも、これは金光教の信心でなからなきゃありません。
 これは仏教やらキリスト教じゃないですよ。どういう素晴らしい、例えば、んなら、夕べの御理解の中に、妙賀ということをね、妙賀ということを頂きましたが、ね。どういう信心の喜びのみょうに触れておってもです、ね、言うならば、その人間の幸せに必要な、んなら、その、言うなら財なら財、いわゆるおかげです、ご利益です、ご利益が伴うていないでしょうが。
 ところが、金光様の御信心だけは、絶対それが伴うようになってるんです。私どもの心の中に、今言う、只今申しますような楽な心が開けて来たらです、もう、嫌ち言うても、これだけは付いて来るようになっとるです。ね。だから、そういうようなこともです、金光様の御信心の素晴らしい、もう、本当に素晴らしいところをです、一つしっかり把握させて頂いて、現在、このような状態のとこを通っておるけれども、これは過程だ。どういうことになっても、神様の信心だけは離されない、離しはせんという、その私は性根が、お互いの信心の心の根底になるものが、それでなからなきゃならない。
 まあ、一生懸命参ってみて、おかげを頂かん時は、また他に代わろうというようなものがです、ないです、ないようです。けれども、どこにか、そのよくよく検討しなければいけないことなんです。ね。そして、ことに当たる度に、それがむしろ神様へすがるという心は強うなるというような生き方の信心させて頂く。 そういう信心をさせて頂くなら、必ず、そういう生き方の上に御神徳が頂かれる。あの世にも持って行く、この世にも残るという御神徳が頂かれる。ですから、私どもの願いとするところがです、いわゆる、安心のおかげであり、ね、本当にどうでも良いというような心の状態を目指させてもらう。けれども、まだ、痛いことは痛い、痒いことは痒い。今、ここにこうしてもらわなければ、どうでもというのはです、これは真心を持って一心にそのことは願って行くが良い。ね。
 そして、それはおかげを受けて、体験を積んで行くが良い。ね。今願いよることを、願い止めにゃならんということは決してない。なら、私でもそうである。ただ、私の場合はです、願って、願って、願い抜いておりますけれどもです、それが願い通りになってもならんでも、その時点を有り難く受けるということだけが、ちょっと違うようです。
 お互いの場合は、願って、願って、願い通りにならんと、神様もおかげを下さらじゃったような思い方をするという、そういうところからね、段々一つ体験を積んで、せっかく信心させて頂くのだから、御神徳の頂けるような信心にならせて頂かなきゃいけん。
 信心すれば、誰でもお徳が受けられると仰る。けれども、そういう誰でも受けられるという信心は、今日、私が申しましたような信心。これだけはならんぞという、たった一つのことをです、自分の信心の根底にです、そういう根性をしっかり作って、それから信心が一歩一歩進んで行くならばです、ね、いつか必ず芽が出る。また、そういう信心なら必ずお徳を受けるということになるのです。どうぞ。